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【執筆ノート】
『歌は分断を越えて──在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙』

2019/06/11

  • 坪井 兵輔(つぼい ひょうすけ)

    阪南大学国際コミュニケーション学部准教授・塾員

「コヒャン、故郷……。私たちと在日は同じです。帰りたい……」。90歳ちかいお年寄りの嗚咽が清澄な歌声と共鳴する。2009年春、在日コリアンの歌手が届けた「赤とんぼ」や朝鮮半島の童謡に韓国残留日本人妻は望郷の念に駆られた。韓国の古都、慶州にあるナザレ園で身を寄せ合って暮らす20人近い日本人妻たちは日本の植民地統治の残滓に他ならない。

大日本帝国は内鮮一体のスローガンの下、日本人女性に朝鮮半島の男性に嫁ぐことを奨励したが、戦後、日本人妻は敗戦国の民になり怨嗟と混乱で3000人以上が行き場を失った。しかし異郷に取り残されたのは日本人妻だけではない。

在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙(キムケソン)さん(70歳)は大阪で生まれ朝鮮学校で民族歌曲に出会った。歌で祖国統一の一助になりたいと願いプロになった。だが異郷に生きる在日ゆえ、背負わされた分断に夢を絶たれた。両親の祖国は南北に引き裂かれ、朝鮮半島と母国は歴史認識や拉致問題などを巡り対立を深め、故国でも在日コリアンへのヘイトスピーチが跋扈する。家族内ですら分断と無縁ではいられない。日本への帰化が進む三・四世と民族の言葉、文化を保持して欲しいと願った一世との境界……。分断によって金さんは海外公演が禁じられ、日本でも活動の機会を奪われた。歌すらも分断を煽る道具とされた。国境を超えて人類普遍の理想を謳った歌詞が軍事独裁への称揚に書き換えられた。

絶望した金さんは歌を断念し、夫を支えるために焼肉屋の女将になった。だが歌を諦められず48歳で日本の音大に入学し、苦学の末に日本歌曲を身に付け歌手として再生した。本書では日本と朝鮮半島歌曲の系譜と政治的文脈を横軸に、金さんの半生を縦軸にして潜在する分断の所在を明らかにし、超克する可能性を歌に求めた。

勿論、歌が分断を越える道標になると考えるのは無邪気な空想かもしれない。だが、願いなくして未来は描けない。生涯を懸けて分断克服を希求する在日コリアンの歌が少しでも社会に響けば本望である。

『歌は分断を越えて──在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙』
坪井 兵輔
新泉社
248頁、1,900円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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