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【執筆ノート】
『消された信仰「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』

2018/08/30

  • 広野 真嗣(ひろの しんじ)

    ジャーナリスト・塾員

「なんじゃこりゃ?」──。2017年春、政局取材の合間に手にした『かくれキリシタンの聖画』という絶版の画集の絵に、言葉を失った。

聖画は、長崎県西北端に浮かぶ生月(いきつき)という島に長年続いてきたかくれキリシタンの間で、信仰対象とされてきたものだ。そうした信仰が続いている事実にも驚いたが、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録を翌年に控えていたことで、関心を抱き始めたのだった。

聖画といえばダヴィンチやボッティチェリ作の彫りの深いイエスや聖母マリアの印象が強いが、この島では違う。平面的で、精巧さとは無縁だ。しかも、「洗礼者ヨハネ」という1枚に描かれた男は、なんと〝ちょんまげ姿〟。クリスチャン家庭に育ち、それなりの聖人のイメージもあった私には違和感も人一倍強かった。

実際に僻遠の島に足を運んで抱いた最初の驚きは、殉教者にちなんだ聖地の通路に、1年以上も大きな落石が放置されていた事実だ。

「潜伏キリシタン遺産」という主題に照らせば、最も注目されてよい地なのに、大切に扱われていない。長崎の大浦天主堂が1億円近い公金で修復されたのと比べると、何か〝見えない断絶〟があるのだ。

ただ、聖画に捧げられるポルトガル語とラテン語混じりのオラショには圧倒された。40分間も続くオラショには教本はなく、信徒は意味を重んじない。純粋に「音」を頼りに400年以上も口伝されてきた。

禁教が解かれた明治以降、少なからぬ信徒がカトリック教会に「復活」したが、生月の人々は先祖が続けたオラショの信仰を守る道を選んだ。

では、なぜ「復活」しないのか。どんな思いで祈るのか。次々と疑問がわき、手がかりを探した。

先行研究は少なからずあるが、奇妙なことに信徒の「生の声」を記したものはない。それはカトリック系の研究機関の研究者が生月を異端視してきたことと無関係ではなく、それが今回の世界遺産から生月の名が消された淵源になっていた。

島を支えた信仰は下火になってはいるが、最後まで守る人もいる。彼らの姿は、立ち戻る場所を失いかけている我々に「祈ることの意味」を語りかけてくるようだった。

『消された信仰「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』
広野 真嗣(著)
小学館
256頁、1,500円(税抜)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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