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【執筆ノート】
『「コミュ障」の社会学』

2018/07/18

  • 貴戸 理恵(きど りえ)

    関西学院大学社会学部准教授・塾員

先日、ある学生が言いました。「先生、『よっ友』って知ってますか」。聞けば、「友達ほど深く知らないんだけど、会えば『よっ』と挨拶し合う関係」とのこと。「何それ」と尋ねたところ、面白い答えが返ってきました。

「ですよね? 私もわからないんです。『だれ?』って聞いても、『ちょっとした知り合い』みたいな感じで、名前も知らなかったり。でも会えば『よっ』て言い合う。そうすると、一緒にいるこっちは『友達多いなー』ってなるじゃないですか。ほぼそのための知り合い、みたいな感じで。

意味がわからないんですよ。仲良くもないのに挨拶だけする友達って何の意味があるのかなって。私は、ちゃんと話ができる人は大学に3~4人はいるし、友達の数はそれほど多くなくてもいいって思ってるんですけど。でも、『よっ』て言い合ってる人を見てると、少ないかな?って思っちゃうし、いつも一緒にランチしてる子が休みだと、やばいどうしよ、みたいなのはあるし」。

何気ない話ですが、胸を突かれました。「私はこんなに友達が多い」と誇示することで存在承認を調達する若者の姿に、「コミュニケーション能力」なるものに過剰な価値を置く近年の風潮が、奇妙にリアルな形で現れているような気がしたからです。それは、「近頃の若者は人間関係が表面的」という言い方では切り捨てられない、現代社会における個々の見えにくい息苦しさ、ひいては「個人と社会とのつながり」の不思議さの一端を、表しているようにも思えました。

本書では、そうした「個人が社会とつながる際に感じる軋み」について、「コミュニケーション能力」「不登校」「ひきこもり」「当事者」などをキーワードに探りました。私は、自分自身の不登校経験を出発点として、「子ども・若者と社会とのつながり」の研究をスタートしました。本書は、そんな私が大学院生時代から現在までの過去13年間に書き散らしてきた原稿が元になっています。

「あいつはコミュ障」「私、コミュ障だから」という荒っぽい決めつけに「待った」をかけ、丁寧に他者や社会と関わる方法を探りました。お手に取っていただければ幸いです。

『「コミュ障」の社会学』
貴戸 理恵(著)
青土社
296頁、1,800円(税抜)

※所属・職名等は当時のものです。

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