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【義塾を訪れた外国人】
マイクル・クライトン:義塾を訪れた外国人

2017/03/03

科学と文学との対話

その作家活動にしても、いわゆる狭義のジャンルに囚われない立場からSF的想像力の魅力を喧伝するばかりか、ミステリの方面でもすでに学生時代の1969年、前掲『アンドロメダ病原体』と同年にジェフリー・ハドソン名義で発表した『緊急の場合は』がアメリカ探偵作家クラブの選ぶ同年度の最高栄誉エドガー賞に輝き、のちの1975年に発表した19世紀ロンドンが舞台の歴史小説『大列車強盗』はクライトン自身の監督で映画化され、同エドガー賞最優秀映画賞を受賞している。小説と映画を股にかけたマルチメディア的才覚においても、彼はパイオニアであった。

かくして、本誌1996年3月号は「マイクル・クライトン現象」なる小特集を組み、前掲『ジュラシック・パーク』やその続編『ロスト・ワールド―ジュラシック・パーク2』(1995年)をはじめ、バブル時代の日本叩きを主題にした『ライジング・サン』(1992年)や、いち早くセクハラを主題にした『ディスクロージャー』(1993年)などが、わたしを含む4名の寄稿者によって分析されている。作家自身がノリにノっていた時期であるとともに、我が国でも第2回日本ホラー大賞を受賞した学生作家・瀬名秀明が遺伝子工学の知識をフル活用した『パラサイト・イヴ』(1995年)で話題をまいており、一躍「科学と文学の対話」に脚光が当たっていたのである。

SF的想像力と慶應義塾

そもそも、このようなSF的想像力が我が国において広く受容されるに至った起源においても、じつは慶應義塾が深く関わっていた。クライトンをはじめダニエル・キイスやカズオ・イシグロなどの大半の邦訳および日本講演を積極的にプロデュースしてきた早川書房は戦後1945年の創業以来、本邦SF出版の先駆けとして広く知られるが、わけても第2代社長・早川浩は、65年に本塾商学部卒業後にはコロンビア大学に留学し、海外の出版界にも太いパイプをもつ国際派であり、欧米作家たちとも長く親密な友情を培ってきている。

早川書房は「SFとウェスタンは売れない」というジンクスがあったにもかかわらず57年に〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉を、59年に日本初の月刊SF専門誌『SFマガジン』を創刊して成功させ、星新一や小松左京、筒井康隆、豊田有恒、高齋正など日本SF第1世代から本塾文学部卒の川又千秋ら第2世代、伊藤計劃や円城塔、藤井太洋ら21世紀の新世代までを育成して、みごとこの新興ジャンルを日本の文学市場に根付かせた。同誌創刊当時、60年代前半にこの新しい動きを熱く支えたのは本塾経済学部卒の文芸評論家・紀田順一郎や同文学部卒の映画評論家で日本SF作家クラブ第2代事務局長大伴昌司である。そして早川浩自身も1970年代半ばには『SFマガジン』第5代編集長を務め、88年には海外作家を招聘するハヤカワ国際フォーラムを開始し、89年の社長就任以後には文庫新シリーズに加え、映像とのメディアミックスを積極的に推進、2011年には早川清文学振興財団を設立した。1998年にはクライトンと同じ前掲エドガー賞特別賞、エラリー・クイーン賞を受賞し、目下、慶應義塾評議員を務めている。

クライトンの本塾訪問が実現した背後では、科学と文学の対話を促進する国際的な対話の歴史がまさに慶應義塾周辺で介在し、ひとつの戦後文化史を築き上げていたのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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