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中澤日菜子:小説家以前

2018/10/22

(撮影:国府田利光)
  • 中澤 日菜子(なかざわ ひなこ)

    劇作家、小説家・平4文

小説を書くことを生業としている。

デビュー作は『お父さんと伊藤さん』。上野樹里、リリー・フランキー、藤竜也という超豪華メンバーで映画化されたので、原作は未読でもご覧になったかたは多いかもしれない。4作目の『PTAグランパ!』は松平健主演で昨年春にNHKBSプレミアムでドラマ化され、好評につき今春パート2が放映された。こちらも観たかたはおられよう。

このように書いていくと、まさに順風満帆で小説家人生を歩んできたと思われがちだが、じつはまったくそうではない。そもそもは劇作家として活動していた。在学中からだからもう30年近い。いくつか賞をいただいたものの、皆さんご存知のように芝居は金にならない。バイトをしながら戯曲を書き続けていた。

2012年、このままではさすがにまずい、と思った。生活できない、と。それでまったく書いたことのない小説という分野に手を出してみることにした。1年間に小説を3本書き、大手出版社の主催する新人賞に応募したが、どれも無残に砕け散った。絶望。どん底。年末、これで最後にしよう、これがだめなら就職しようという、なかば諦めの気持ちで講談社の小説現代長編新人賞に応募。これが運よく最終選考に残り、伊集院静氏はじめ錚々たる作家による選考会にかかることになった。

選考会の日のことを、いまでもよく覚えている。夕方4時から選考が始まるので、必ず電話が取れるように待機しておれと講談社には言われていた。6時過ぎ、家の電話が鳴った。震える手で受話器を取る。「ママー。あたしだよん」聞こえて来たのはムスメの声。自宅の別室から自分の携帯でいたずら電話をかけてきたのだ。このイタ電のせいで寿命が3年は縮んだと思う。でもおかげで一気に緊張が解けた。

6時半、今度は携帯が鳴りだした。通話ボタンを押す。低い男性の声が流れてくる。「小説現代編集部です。中澤さんの応募作品が受賞作に決定しましたがお受けいただけますか」。受けますとも、受けるに決まってるじゃないか。周りで家族がわあわあ騒いでいた。電話の声に混じって、重たく厚い巨大な扉が開いていく音が、確かに、した。

と、ここまでが小説家以前の話。もし万一またご依頼があったら、このつづきを書こうと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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