【福澤諭吉をめぐる人々】
森 常樹
2025/05/23
6年間担任持ち上がり制
幼稚舎の特色の1つに6年間担任持ち上がり制がある。森は修身を時間割に定め、高尚で「四角張った言語をもって説き聞かせ」一見厳粛に「姿勢だけは行儀正しく」聞かせる世間のあり方に疑問を持っていた。そこでそれを克服する仕組みとして「全体学級受持」で「なるべく1年から6年まで一人の教員に受け持たせ」ることを是とした。この受け持った6年間に「教員が責任を有してすべての教授に修身の主旨含ませ」、児童間に起きた「偶発の事柄につきて教訓」し、「時々物語りや昔話を授けて」正していく。それにより「これが修身科であるといふようなことを子どもに感ぜしめず、かねて生徒の言行に注意すること」ができる。また、教師の人格は十人十色にもかかわらず担任が毎年代わると、「前の教師は後の教師との比較批評を試み師弟の関係はおのずから冷淡とな」るが、固定をすれば児童が適応に迷わないという。
森就任以前の幼稚舎は、中高生のような異年齢の子どもも混ざり能力別編成で学んでいた。森はその弊害について「年齢不相応の級」に進むと過度な重荷を負い「疲労を覚えて正常の発達を妨げ、かえって将来を誤る」。幼少の時には「心身に休息の余裕」を適宜に与える必要を考慮すべきと説明している。
獣身を成して後に人心を養う
冒頭の「幼稚舎の教育」において、森は、福澤の子ども教育の主義は、「獣身を成して後に人心を養う」であるから「体育の事につきては中々やかましく言ってお」り、「先生の孫達が来ておりますが先生は子供が学校で学科が善く出来たからと言っても喜ばないが遠足をして車にも乗らず、元気で帰って来たときは褒めるのです。これは世間の父母達がややもすれば勉強々々と云って子どもが静かにして読書するばかりを褒めるのとは反対」であるというエピソードを伝えている。森自身も、修身の柱の「十徳十戒」の中の1つに「健康」を掲げており、「健康なる精神は健康なる身体に宿るといへり、されば人は先づ身体健康ならさるべからず。若し身体虚弱なれば、たとえ才能智ありといえども、これを活用することあたわずして、空しく宝の持ち腐れとなるべし。故に不断衛生を重んじ、寝起食事等を規則正しくて成るたけ健康を増すやうに心掛くべきなり」と児童に伝えている。
また、具体的な運動については、「1クラスを一つの塊として一斉に同じ活動をさせるというのは、一部の者のためには利き目もあるかもしれないが中には体力の違いがあるために随分苦痛を感じるものがある。厳格に大勢を一斉に同じことをやらせるということは余程考えものであ」ると考え、「身体の運動は自由遊戯ということが最もよろしい」としている。「遊戯は自分の力相応に……興味という快楽が伴うから身体の発達という点からよほど利き目があ」り、例として相撲を挙げ、子供たちが力士に名前を付けたり、紙で廻しを造ったりする手際は、教師が教場にて教えるものよりかえって優れており、「長く続きまた大変に興味を感じて余念なくやっている」と言う。
「戯去戯来」と「最大幸福」
大正4(1915)年始業式。森は「およそ人は何事をなすにも気持よく愉快な気分をもっていなければ仕事ははかどらぬばかりか、億劫になって怠けがちになる」。「かぎりある身の力試しにという気分でやって行けば苦しい事も苦にならず楽しんで仕事をする。楽しんで勉強するといふことが大切である」という言葉を語っている。現在、幼稚舎の講堂、自尊館に掲げられている福澤の「戯去戯来(戯れ去り戯れ来る)」の書、または「修身要領」最後の条が掲げる「最大幸福」という言葉にも通じ、福澤思想が底流に感じられる。
森は大正8年、60歳で舎長を辞す。21年5カ月は歴代最長である。晩年「幼童を教育し楽しみて老を忘る、これ人生の至福なり」と語る森にとり21年5カ月の児童との戯れは、幸福で楽しい月日だったことであろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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