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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤 錦

2023/01/12

娘の教育

諭吉は、著作の中で男女は同権であり、女性にも教育が重要であることを説いている。留学中の息子たちに、娘たちを留学させた場合の費用の概算を尋ねている書簡も存在している。

しかし、実際の娘たちは留学どころか学校にもまともに通うことはなかった。三女までは、一時、幼稚舎にも在籍はしたものの男子と学ぶ内容は異なった上におよそ2年間で辞めてしまう。その後、横浜の共立女学校(現横浜共立学園)に入学させた娘もいたが、こちらは、1、2カ月で辞めさせてしまっている。この学校は全寮制であったにもかかわらず、娘たちが慣れるまでは週末の礼拝を休み、例外として帰宅させて欲しいと嘆願書を送る始末であった。清岡によれば、これは「おぼあ様が心配でさびしくてたまらないと云って呼びかえされた」のが大きな要因であったようだ。五女にいたっては1度も学校に通うことはなかった。

結局、娘たちの教育は、外国人の婦人を家に呼び英語や編物、料理を教わること以外は、琴、三味線、踊り、日本画など「普通のお稽古ごと」を習う「全く普通の家庭と変らない女子教育」を受けていたようだ。「江戸住居の藩士普通の養育」を受けてきた錦の考えが色濃く影響していたのかもしれない。なお、錦の母「はま」は、夫を早くに亡くしたこともあり、福澤家に隠居していた。錦と共に家事一切をきりまわし、殊に女中の監督に気を遣っていたとされる。奥平の「芳蓮院(ほうれんいん)様」に対する心遣いからほうれん草という言葉を一生口にせず「赤根草(あかねそう)」と呼ぶほどに頑固で身が固かった。はまの存在も娘の教育には影響したのかもしれない。

夫婦の関係

諭吉は人生家族の本は夫婦であると説き、夫婦は対等で何事においてもよく相談することが重要だと説いている。実際に諭吉が留学中の息子に宛てた書簡には「母人」と「申合せ」や「語り合ひ」のような言葉がみられる。錦の書簡からは心配事は諭吉の体に障るため自分が先に聞き諭吉に「相談」をしておくという旨の内容も書かれている。

また、毎月末には「必ず帳面と算盤をもち出し夫婦さし向いで」で共に家計簿をつけるなどの共同作業もみられる。さらに、錦は、俳句が趣味で諭吉の門下生の飯田三治から教えを受けていたが、時に諭吉も加わり連句を作るなど錦の趣味に歩み寄りもみせている。

一方、四男大四郎は、姉から「父は女の権利がどうのこうのいっているけれども、家では常に遠慮なく平気で思うままのことをしていた」というようなことを伝え聞いている。ただ、実際には「反対する人がなかったので自然とそうなったであろう」と分析し、夫婦喧嘩もなく円満であったのは「母は日本式の女できわめて穏やかな従順なひとであったから問題が起こらなかった」のであろうとも振り返っている(『父・福澤諭吉』)。

おばあ様としての錦

諭吉がこの世を去ってから、20年以上、錦は未亡人として、三田の家に一人で住んだ。清岡によれば、子どもたちの世話になることはなく、「かえって子や孫に頼りにされていた」ようだ。「居間の隅には立派な事務机」があり、「やさしい人で、叱ることはあっても怒ることはなく、いつも落ちついていて、膝を崩すこともないので、夏どんなに暑くても、おばあ様だけはあつくないのだと思」うほどしっかりとしていた。「自然な流れで女中に指図しているので、こちらも大いにゆったりした気分になれ」たという。

錦は孫たちにとって「やさしい人」であると同時に冒頭のように「旧時代の象徴」的な存在でもあった。捉え方によっては、老後の錦は、福澤諭吉の妻にもかかわらず、「旧式なおばあ様」として〝年を取ることができた〟とも言えないだろうか。それは、諭吉と錦が独立した個人として価値観を尊重し合い、対話や相談、共同作業を大切にしてきた故なのかもしれない。

錦は、大正13(1924)年に息を引き取り、諭吉が眠る常光寺に埋葬、後に諭吉同様、善福寺に改葬される。

諭吉は、生前、錦も固有の財産を持つベきであると考え、錦名義の預金を行っていた。錦の殁後、その財産は大きなものになったため「錦(にしき)会」という名の記念基金を作り、親類を助けたり、塾のために使ったりするようになった。現在、この基金は、毎年の幼稚舎卒業生へ寄贈される『福翁自伝』にあてがわれ、今でも錦おばあ様の優しさは、小さな塾生たちに届けられている。

(参考文献:『福澤諭吉と女性』西澤直子)

孫の中村里、曾孫の愛作夫妻と玄孫たちとともに(前列左が錦)(大正8 年頃、『聞き書き・福澤諭吉 の想い出』より)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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