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【福澤諭吉をめぐる人々】
三宅大輔

2022/07/09

アメリカ野球の研究

三宅は普通部に入学すると直ぐに野球部に入った。当時の野球部は、大学部、普通部、商工学校が一緒になっていた。明治43年、普通部4年の春に正選手に加わった。当時は、早慶戦が中断していたが、塾野球部は旺盛にアメリカの野球を研究し、吸収していた時期であった。

40年には、はじめての外国チーム招待として、ハワイのセントルイス・カレッジチームを招き、41年にはハワイ遠征をした。この時、ハワイでのリーグ戦に本土から参加した学生チームに、翌年ニューヨーク・ジャイアンツに入団する遊撃手アーサー・ジョセフ・シェーファーがいた。大会後コーチ頼んで指導を受け、「是非、機会を作って日本へコーチに」と頼んで別れたが、帰国後義塾野球部は、正式にジャイアンツのマグロー監督に手紙を書き、ジャイアンツからシェーファーとエルマー・トムソン投手をコーチに招いた。

43年暮れから約1カ月、約20名の部員は神戸で合宿、両コーチの指導を受けることになった。シェーファーは、マグロー監督から、いかにコーチすべきか細々と教えられてきていたので、「諸君はマグロウ氏から間接にコーチを受けているのだ。これが本式の野球だ」と言いながらコーチをした。部員達は、毎日、その日に教わったことは何でも、合宿に戻ってノートにまとめた。そして、合宿の最後には全員のノートを整理して1つにまとめた。これが秘伝の書と言い伝えられているものである。三宅は、後に大正5年主将になった折に、門外不出は狭量であると主張、日本全体の野球の向上進歩にも貢献することになった。

ちなみに、三宅は、「以前に(野球部の)菅瀬(一馬)君が私に「ベースボールを研究するには英語を勉強しておけよ」と教えてくれたので、私は一生懸命に英語を勉強していた。それゆえ、(略)先方のいうことぐらいはわかるようになっていた」という。

三宅ら義塾野球部は更に、44年にはアメリカ大陸に遠征、大正3年にもスタンフォード大に招かれて遠征、野球の技術・戦術を確立して行った。

大正7年に理財科を卒業した三宅は14年、早慶戦復活の時には義塾野球部監督を務め、プロ野球が出来ると、巨人軍の最初の監督となった。その最初のアメリカ遠征も、沢村栄治、水原茂らを率いている。

好い野球

前田祐吉が大切にしていた書翰の中に、昭和42年8月末の三宅からのものがある。

この頃のプロ野球の指導者の頭の古いのが多いためか、戦法が古くさく、不快を感じます。多分自分が中学生時代に教わったことを、監督やコーチになってから、使っているのではないかと思われます。(略)秋にも優勝するのを楽しみに見ています。但し、只勝つだけでなく、「好い野球」をプレーして勝って下さい。

三宅は、晩年までシェーファーとの文通を続けるなど、アメリカの野球人との交友も大切にした人であった。自らも、「好い野球」を生涯追い求めたのである。

最後に、三宅の隠れた功績を紹介しよう。三宅の父は、後藤象二郎の秘書の後、歌舞伎座の取締役を務めたような人で、歌舞伎への理解も深い人であった。また三宅大輔の弟の三宅三郎は劇評家である。その影響もあってか、三宅自身も、歌舞伎をはじめ劇の脚本を幾つも書き、上演された。

終戦後は歌舞伎検討会の委員も委嘱され、古い脚本の点検に関わるだけでなく、「勧進帳」「忠臣蔵」などの上演許可の為の折衝も三宅が担った。封建的の忠義を強調する劇の上演は認められないと言う進駐軍に対して、三宅は、「喜劇「カルメン」でも同じでしょう。ジプシーの密輸入国のあり方を見るのではなく「いい音楽」「いい歌」を聞きたいのでしょう」と歌舞伎も脚本のみではわからないと説得した。結局、担当の係官は上演を許可しただけでなく、歌舞伎の愛好家になったという。

また、進駐軍の演劇部長からはアメリカの劇の上演を勧められ、ジョン・スタインベック作・脚色の『二十日鼠と人間』を三宅が訳出した。1日2回、20日間の上演は常に満員であった。研究心が旺盛でしかもアメリカ人とのコミュニケーションに長けていた三宅らしいエピソードである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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