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【福澤諭吉をめぐる人々】
門野重九郎

2021/11/29

兄がすすめた実学の道

卒業を控えた18歳、重九郎は漠然と政治経済方面へ進学することを考えていた。しかし、義塾の教頭職に就いていた幾之進は、「学問々々といっても、政治経済のような正体のつかめない学問はよした方がいい。これは学問というより常識で身につく。福澤先生もどちらかといえば、これからの若い者にケミストリーをすすめておられる。お前はどうしても科学の方へ行け、工学を修めろ。その方が間違いなくメシがくえるようになる。おれが慶應の先生をしていてこんなことをいうのもおかしいが、本当の話そうなんだから仕方がない」と、真っ先に反対した。

明治17(1884)年夏、重九郎は慶應義塾本科を卒業して、工部大学校(現、東京大学)に約10倍の競争率を突破し合格、官費生に選ばれた。明治24(1891)年、帝国大学(在学中に旧東京大学と合併)土木科を卒業、専攻は鉄道工学であった。

卒業後は、官費生は修業期間に相当する期間を政府指定の職場で働く義務があったが、鉄道国有化以前は鉄道工学を生かせる場がなく、事実上の無職となった。幾之進に相談したところ、「アメリカへでも行ってみたら」という助言を得て、鉄道庁部長(後に長官を務めた)松本荘一郎の紹介でペンシルバニア鉄道技師のジョセフ・U・クロフォード(幌内鉄道建設のために招聘に応じて来日、その建設のために松本を起用していた)を頼り、同鉄道で働くことになった。渡米に際しては、小泉信吉(のぶきち)の後押しを得ている。

重九郎は、「義塾の同窓生で一番お世話になったのは小泉信吉氏であり、私が海外渡航する時に横浜正金銀行から援助してもらったことを深く感謝している」と述懐している。現地では、米国人なみの給料で雇われ、周囲に製図を満足に引く者がいないため自身のものが採用された。また、人種的偏見に悩まされることも少なく、むしろ日本出身ということに驚かれ、同僚から気持ちよく迎えられた。4年間の米国生活を終える際、英国経由で帰国した。

山陽鐵道に選ばれる

明治29(1896)年に帰国、重九郎は30歳になっていた。洋行帰りとはいえ、活躍する旧友に悲観されたことから、工学よりも政治経済だったのではと後悔もした。しかし、知人の仲であった荘田平五郎(塾員、三菱財閥の要職を歴任)から、「それはとんでもない考えちがいだ。政治経済より工学を修めた方がよかった。同じ4、5年でも、内地で苦労するよりは海外へ出て苦労したことがよかった」と懇切に諭されたという。

それからまもなく、帝国大学の助教授、逓信省鉄道局などから声がかかるようになったが、いずれも断るうちに、山陽鐵道株式会社(現JR山陽本線を敷設、開業)へ入る話が決まってしまったという。取締役の中上川彦次郎(塾員)と、技師長の山口準之助がそれぞれ重九郎にとって旧知の仲という、二重の縁によるものであった。こうして重九郎は、事実上の陣頭指揮者であった牛場卓蔵支配人(塾員)の下で、技師として全線開業に向けて延伸区間の建設に携わった。

大倉組へ

当時、大倉喜八郎(大倉組の設立者)はロンドン支店へ送り込む人材を探していた。重九郎を大倉組へ誘ったのは、大倉粂馬(大倉喜八郎の婿養子)と、高島小金治(塾員)であった。大倉粂馬は帝国大学の数期先輩にあたり、高島は幾之進の親友で、両人とも中上川とつながりがあった。この2人が、「門野という男は、アメリカとイギリスに行ったことのある慶應出だ。人間は正直で、正直以外に別に取柄はない。ボンクラで正直だから、気の利いた商売は出来んが、決して悪いことだけはしますまい」と推薦した。この転身には幾之進や中上川からの反対は無かった。

明治31(1898)年、大倉喜八郎は、「よろしく頼む」のただ一言で重九郎を迎えた。重九郎にとっては、技術者から実業家へ転身したいという漠然とした思いが潜んでおり、塾生時代の希望が実現する運びとなった。ロンドン支店長を10年務めて明治40年に帰国すると、副頭取を任された。後に重九郎は、「一介の鉄道技師に過ぎぬ私を、大倉組の重要ポストに引き上げ、若年の、しかも貿易関係には全くの素人である私に一切をゆだね、あとはもう何から何まで私を立てるようにされたのである」と振り返った。

その後

昭和12(1937)年に大倉組の要職を退き、小田原へ隠居してからは、意地のように東京へ出掛けなかった。重九郎は、「世間では私を誤って相当な財界人に認めてくれたようであるが、みんな「大倉さん」というバックがあってのことで、実質は大倉組の番頭、いうなれば一介のサラリーマンに過ぎなかった」と、終生控えめな発言にとどめた。一線を退いて肩書つきの職は、ヘボン式を重んじる標準ローマ字会の会長のみであった。昭和33(1958)年4月、塾生時代に得た教えを最後まで貫き、大往生の人生に幕を下ろした。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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