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【福澤諭吉をめぐる人々】
早矢仕有的

2019/04/26

「科学者」としての早矢仕

これまで多くの書物が早矢仕を奇人と扱ってきた。これは、彼の奇行を伝えるエピソードによるところが大きい。例えば、病院に刀を置き忘れたり、元旦から店の大掃除を始めたり、自分の筋肉にモルヒネを注射して反応をみたりといったものである。実際にはどのような人物であったのだろうか。

作家内田魯庵(ろあん)は、丸善の丁稚時代に隠居した早矢仕宅に使いで訪れた際の印象を書き残している(『内田魯庵全集』4)。内田が家に入ると、床の間や机の上は、本、新聞、紙屑、瓶、鉱石などであふれ、畳は薬のシミや穴だらけだった。早矢仕は火鉢の前で洋服のまま胡坐をかき、酒を呑んでいた。丁稚の内田に「お前はイツ奉公に来た、イクツになる、親父は何をしてる」とやさしく尋ねた。きわめて柔和で話し方も女性のようだったという。

また、別の日に物置小屋に呼ばれたので入ると、中央に大きな「カマ」があり、棚には薬壜が並んでいた。早矢仕は金の塊を掌に載せて、「これを見ろ。あの石からこれだけの金が取れる」と傍の鉱石を指してうれしそうに言った。これは書物にしたがって鉱石の分析を実地に行っていたときの様子らしいが、早矢仕が知的好奇心にあふれた人物であり、隠居してからも本に書かれていることを鵜呑みにせず、自ら実験して確かめる合理的実証精神をもった人物であったことがわかる。

福澤との関係

また、福澤がみるところ、早矢仕は「廉潔之人物」でありながら、ここぞというときには「屈強正直」であったという。例えば、医師である早矢仕が商社を営む理由として、外国商人が薬などの舶来品を高値で日本人に売りさばき暴利を得ていたことへの反発があった。そのため早矢仕は、「なるべく安く買い集め、買う人の喜びを願い、通用のあぶなき金で利益を得るよりも無形の利益を得たい」と、人の喜びを願う良心的な商売を志した。福澤は早矢仕の正直な商売を評価し、自ら出資するだけでなく、周囲にも出資を勧め、また有望な人物を丸善に紹介した。2人は師弟関係というよりも同志、仲間といった関係に近かったといえる。

その関係性は次のエピソードからもわかる。あるとき、福澤は日本で初めて輸入された人力車を見て大いに喜び、「早矢仕さん、あなたが一番乗試しをやって下さい、かような新規な作物はあなたの試験に限る」と、人力車初乗りの栄誉を譲った。逆にこうもり傘は、早矢仕が真っ先に福澤に進呈して、日本人第1号の傘の翳し試しをしてもらったという。

その一方、福澤は丸屋銀行が破綻の危機を迎えていたときに「早矢仕は大馬鹿、この大馬鹿に金を託して平気なのも大馬鹿だ」と、珍しく手紙で早矢仕への怒りをあらわにしている。これは福澤が自分以外に息子三八の名義でも銀行に出資しており、当時は無限責任でしか出資ができなかったため、このまま破綻すると息子が破産者となってしまう心配があったためである。中村や早矢仕の奔走で最悪の事態は回避できたが、子煩悩な福澤にとっては耐えがたい一件であった。

「次は俺かな」

早矢仕有的は医師であり、学んだ医学・科学を生かし、丸善を創業し、舶来物を自ら実地に試験して日本に輸入した実業家でもある。商売の目的は暴利をむさぼる外国商人の手によらずに自分たちの手で貿易を行うことにあった。同じ志をもった福澤にとって、早矢仕の丸善は自らの実業論の実践であり、共同事業であった。そのため自ら多額の出資を行い、多くの有益な人材を紹介し、それを支えたのである。

早矢仕は、明治34(1901)年2月18日、63歳で死去した。福澤の死から15日後のことであった。福澤の死を知った有的は、「次は俺かな」と周囲に漏らしていたという。墓は雑司ケ谷霊園にあり、今年の命日には丸善150周年の花が手向けられていた。

雑司ケ谷霊園内の早矢仕有的の墓

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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