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【福澤諭吉をめぐる人々】
森村兄弟(森村市太郎・森村豊/森村明六・森村開作)

2018/06/26

市太郎から開作へ

「我社ノ精神」が作成された頃、すでに70歳を超えていた市太郎は、経営を二男・開作など若い世代に任せていく。開作も豊や明六と同様、義塾卒業後にニューヨークへ渡り、イーストマン商業学校を出てモリムラ・ブラザーズに勤務した。明六の死後は、将来の後継者として森村組諸部門の仕事を担っていた。

大正3(1914)年には日本陶器合名会社が念願の白色磁器製造に成功し、テーブルウェアの対米輸出が始まった。これは、第1次世界大戦下の好景気に湧くアメリカ市場に受け入れられ、順調に業績を伸ばしていく。若い執行部は新たな事業への投資に踏み切り、例えば衛生陶器を扱う東洋陶器株式会社(現:TOTO)や日本碍子株式会社(現:日本ガイシ)といった新会社を設立している。そういう積極的な経営方針は、市太郎の座右の銘「世の中は日進月歩。進まざるものは退く。退くものは滅亡」を継承したものかもしれない。

大正8年に市太郎が死去すると、森村組関連企業(森村グループ)を束ねる総長には開作が就任した(昭和3(1928)年に名跡・市左衛門を襲名)。開作は就任早々戦後恐慌に直面し、以後、昭和恐慌や戦争など、苦しい状況の中で経営の舵取りを担うことになる。太平洋戦争が始まって駐米日系企業の資産が凍結されると、モリムラ・ブラザーズも撤退の憂き目にあってしまう。森村組関連工場は軍需工場として稼働することになる。

戦後、開作は戦争協力者と見なされて公職追放の対象となり、追放が解除されても経営現場に戻ることはなかった。その一方で、市太郎の遺志をついで教育社会事業に貢献し、父が創設した幼稚園・小学校を森村学園に発展させた。義塾では評議員や理事を歴任し、日吉キャンパス開設のために尽力するなど、各種の事業を支援した。開作は昭和37年に亡くなるが、森村商事(森村組から社名変更)や関連企業は現在も第一線で活躍する企業となっている。


※所属・職名等は当時のものです。

左から森村開作、森村豊、森村明六(慶應義塾福澤研究センター蔵)
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