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【福澤諭吉をめぐる人々】
エドワード・S・モース

2017/06/06

三遊したモースを迎えて

明治15(1882)年6月、モースは3度目の来日をした。美術品を蒐集する旅で、友人ビゲローも一緒に来た。東大の外山(とやま)・矢田部・菊池三教授の呼びかけに応えて、6月22日、モースを知る34人が築地精養軒(せいようけん)に集まった。江木は2年前に死去していたが、田中不二麿、加藤弘之、濱尾新、西周(にしあまね)、箕作麟祥(みつくりりんしょう)、津田仙(せん)、神田孝平(たかひら)、箕作佳吉(かきち)、服部一三(はっとりいちぞう)、藤田茂吉(もきち)、金子堅太郎、井上哲次郎らと共に、福澤の姿もあった。

アメリカの友人2人を迎えた宴は、午後4時頃から9時頃まで続いたという。モースは「その日」に、一人一人に挨拶して参加した全員の名を覚えていたことが嬉しかったなど、その時のエピソードを記した後に「この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった」と回想している。懐かしい人々との再会や彼らの温かいもてなしを、心から嬉しく思ったのだろう。

ところで、この歓迎会のことを報じた『東洋学藝雑誌』第10号(明治15年7月)を見ると、福澤がその席で行ったスピーチの要約が載っている。

ビゲローが日本人が日本古来の方法で絵を描くことの大切さや必要を語り、続けてモースが「欧米の日本趣味は長年かけて培われたものでどの家にも日本風の品物があるのだから、日本人は日本の物を使うべきで、日本の物を使わず洋品を使うのは宜しくない」と述べた。それを受けて福澤が語った言葉を、同誌はこう紹介している。

…次に福澤諭吉氏が、日本人のモールス氏を喜びモールス氏の日本を好むが如きは、日本人に生来科学に傾向するの性ありて宗教を嫌忌するが為めならず、但し日本には古より宗教の人心を束縛すること西洋の如く甚しからざるを以て然るのみ、云々といはれ…(読点は大久保)

モースの言葉を聞いた福澤は、日本を愛する彼の姿と、その話を聴こうと講演会に詰めかける日本人とを対比して、日本人のモース好きの方は決して科学志向や宗教嫌いのゆえではない、ただ古来日本では宗教が西洋ほど人の心を束縛してこなかったことが背景にはあるだろう、と一種文明論的に分析して見せたらしい。話の要約ではあるが、この記事は2人の実際のやり取りを記したものとして貴重である。

捨次郎によって続いた縁

翌16年、モースはボストンの北東20キロほどの所にあるマサチューセッツ州セーラムに戻り、以後日本には来なかったが、2人の縁はなおも続いた。それは同年兄一太郎と共にアメリカへ留学した福澤の次男捨次郎が、マサチューセッツ工科大学へ入るに際してモースの世話になり、以後も度々その許を訪れたことによる。捨次郎からの報告で知ったのだろう、福澤は17年8月13日付でモースへ手紙を書き、捨次郎や義塾でも学んだ朝鮮留学生兪吉濬(ユキルジュン)が世話になっていることに礼を述べた。当時捨次郎はほぼ毎日モースの所に通っていたようで、手紙には、お仕事の邪魔にはならないか、少年のことゆえ気が付くことがあればご忠告頂きたい、とも書いてある。

捨次郎はその後も折々にモースを訪問したと見え、翌々年、福澤は捨次郎へ宛て、モースのため縮緬一疋(ちりめんいっぴき)を送っている。日本の着物や羽織を着て貰おうと考えたのだろう。また20年11月には、捨次郎が義弟桃介(ももすけ)を連れてモース宅へ行き「色々面白き遊戯」を楽しんだという。モースは子供や学生と遊戯を楽しむのが大好きだったから、その一面は福澤家の若者に対しても遺憾なく発揮されたはずだ。

21(1888)年6月に一太郎と捨次郎が帰国の途に就いて以降、モースと福澤が接触した跡は見当たらない。ただ、モースは常に日本からの客を楽しみにして、来れば温かく迎えたし、日米間の往来は年々盛んになったから、その中で、互いの消息を聞く機会はあったろう。福澤より3歳下のモースは動物学や人類学、日本文化の専門家として晩年まで精力的に活動を続け、大正14(1925)年12月20日、住み慣れたセーラムで87年半の生涯を閉じた。その2日後、この年放送を始めたラジオのニュースが、日本人にその訃音を伝えたという。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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