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【福澤諭吉をめぐる人々】
小幡甚三郎

2017/03/03

アメリカ留学

明治4(1871)年12月末、甚三郎は旧中津藩主奥平昌邁(まさゆき)とともにアメリカに出発した。入塾したばかりの17歳の昌邁に福澤が留学を勧め、その随行者に甚三郎を推挙したのであった。後年福澤は、学問・人物を大成させるために甚三郎を選んだと語っている。

昌邁と甚三郎は明治5年2月末にニューヨークに到着している。3月初旬、留学先のコネチカット州ウィンチェスターに移動するが、ここでは十分に学ぶことができないと判断して下旬にはニューヨークへ戻り、ブルックリンでプライベートレッスンを受けることになった。

ようやく落ち着いた甚三郎は、手紙を2通送っている。そのうち1通は、篤次郎宛で、初めての異国で、旧藩主である昌邁の通訳・従者の役が満足にできず、辛い思いをしたということが率直に綴られている。

一方、母親および「皆々様」に宛てた翌日の手紙では、もう辛い思いはしていない、心配無用であると強調し、「此の次の便のとき迄には、立派な「アメリカ」っ子になって写真を指上申候間、写真を御覧になって御安心可被下候様(くださるべくそうろうよう)呉々奉願候(ねがいたてまつりそうろう)」と重ねている。また、「当地の食物好きもののみなれは、必ず少しは肥満して、達者に相成候事と相楽申候」と明るく展望を述べている。さらには、甚三郎が戸惑ったアメリカの風俗、例えば、テーブルマナーや石鹼で体を洗うことも茶化しながら紹介している。前日の手紙と打って変わって明るい文面には、本当は辛いが遠く離れた母親に心配をかけたくないという母への優しさが投影されているように思えてならない。

甚三郎は同地にあるポリテクニック・インスティテュート(現ニューヨーク大学技術工科大学)でも学んだ。当時の日本人留学生がそうであったように、あるいはそれ以上に学問に打ち込み、睡眠もほとんど取らなかったようだ。そのためか、同年11月頃から、精神に変調を来すようになってしまった。異国の生活は、祖国への思いを強くさせ、時に強烈な孤独感を誘起する。少しでも多くのことを学んで義塾の発展や一国の独立に貢献しようという使命感、福澤の期待に応えなければいけないという責任感、家族への思い、そういったものが折り重なっての発病であろう。

甚三郎の発病を知った昌邁は、費用は高くても最良の治療を受けさせたいと願い、当時アメリカ随一といわれたフィラデルフィアの精神病院に入院させた。しかし、すでに身体は著しく衰弱し、回復の見込みもなかった。そして明治6年1月29日、甚三郎は帰らぬ人となった。享年27。若すぎる死であった。

福澤の悲しみ

甚三郎の訃報は4月2日に東京に達し、知らせを受けた福澤は湯治中の箱根から急ぎ帰京した。福澤の深い悲しみは随所に見られ、例えば中津の島津復生(ふくせい)に宛てた手紙では、「生涯の一親友」である甚三郎が帰国した際にはともに諸事を成そうと楽しみにしていたのに、それが叶わなくなった、「天命とは乍申(もうしながら)、何分にも自から慰る方便無御座候」と、遣る瀬ない気持ちを吐露している。甚三郎の死を悼んで脱稿した「小幡仁三郎君記念碑詩稿」には、「嗚呼(ああ)、君を思えば君のために君の死を悲しみ、我学問の道を思えば道のために君なきを歎じ、天下を思えば天下のために君を失うを患う」と綴っている。

福澤はその後も、折に触れて甚三郎のことを語っている。前掲の戊辰戦争の際の逸話は、明治15(1882)年3月に時事新報に載った後、福澤全集緒言にも掲載された。明治29年11月に「慶應義塾の目的」を演説した際には、見習うべき塾員の筆頭に甚三郎を挙げている。明治33年に『修身要領』を執筆した時にも、甚三郎が生きてくれていたら良き相談相手になったのにと、嘆いたという。

福澤が晩年までその死を惜しみ続けた甚三郎。福澤が大切にした「独立」「気品」「智徳」を体現する稀有な存在であった。その甚三郎が学んだここニューヨークで、その足跡を大切に伝えていきたいと思う。

※福澤の手紙は『福澤諭吉全集』所収のものを、甚三郎の手紙は西澤直子「小幡甚三郎のアメリカ留学」(『近代日本研究』14巻)所収のものを引用・現代語訳した。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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