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【福澤諭吉をめぐる人々】
岡本周吉(古川正雄)

2016/08/05

幕府海軍の艦長となる

元治元(1864)年、福澤が小幡篤次郎など6人の中津の子弟を入塾させる頃まで、岡本は塾長として塾生のまとめ役に当たった。

福澤は岡本に立身の道を開いてやりたいと考え、広島藩を訪ねて岡本を取り立てるよう推薦する。しかし、岡本の出自が庄屋の子であり藩士ではなかったことから起用を断られる。すると、岡本の身柄をどのようにしようとも広島藩において後で文句は言わないな、と釘を刺した上で、下谷辺にいた旗本古川家に相続する男子がいなかったので、岡本をその婿養子に周旋した。こうして岡本は名を古川節蔵と改めた。文久元(1861)年の頃のことである。福澤や福澤塾、学問への愛着は人一倍であったようで、その後も塾には出入りをしていた。

旗本の1人となったこともあり、数学が得意で測量の心得もあったことなどから、古川は幕府の海軍に入り、士官となって、次第に進んで軍艦長崎丸の艦長にまで出世した。

さて、慶応4(1866)年、江戸城開け渡しの後も幕府海軍は軍艦を品川沖に集結して、抵抗を続けていた。そして、古川は榎本艦隊よりも先に品川湾を脱走することになるが、その直前、新銭座の福澤に暇乞いに来た。そのときの様子を『福翁自伝』では次のように回想している。

「『ソリャ止(よ)すが宜(い)い、迚(とて)も叶わない、(中略)モウ船に乗(のっ)て脱走したからと て勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるが宜いと云た所が、節蔵はマダなかなか強気で、『ナアに屹度(きっと)勝つ(中略)と云て、なかなか私の云うことを聞かないから、『爾(そ)うか、ソレならば勝手にするが宜い、乃公(おれ)はモウ負けても勝ても知らないぞ。(中略)唯可哀そうなのはお政(まさ)さんだ(節蔵氏の内君)、ソレ丈(だ)けは生きて居られるように世話をして遣(や)る、足下(ソクカ)は何としても云う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります」。

強情な古川の先行きを案じる一方、その家族を思いやっており、福澤がいかに古川を可愛がっていたかが窺える。

古川はその後、軍艦高雄丸の艦長となり宮古港の海戦に臨む。この海戦の中で、高雄丸ら旧幕府海軍は官軍の旗艦、東艦を襲うのだが、作戦は失敗に終わる。なお、その東艦については因縁がある。慶應3年、福澤は幕府の軍艦受取委員の随員として2回目の渡米を果たす。この時、米国政府から受け取った軍艦が、他でもないこの東艦だったのである。福澤が米国へ行って受け取ってきた軍艦を、弟分の古川が敵にまわして奪おうとしたというのは、不思議な歴史の巡り合わせである。

さて、敗れた古川らは上陸して南部藩に降伏を申し出て、東京に護送されて広島藩の屋敷に監禁された。それを知った福澤は、

「ソコで私は前には馬鹿をするなと云て止めたのであるけれども、監禁されて居ると云えば可哀想だ」ということで、広島藩の屋敷にいる懇意な医者に取り計らいを依頼して、古川に会いに行った。福澤は、

「ザマア見ろ、何だ、仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公が止めたじゃないか。今更ら云たって仕方はないが、何しろ喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫れから宅に帰て毛布(ケット)を持て行て遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞たりした」(『福翁自伝』)。と、真の弟のように見舞っている。

その後の古川

明治3年、放免を許された後、古川は福澤の推挙を受けて海軍に出仕し、海軍兵学校の教官になり、名前を正雄と改めた。

また、明治3~5年にかけて、古川は『絵入智恵の環』『ちゑのいとぐち』などの小学読本を慶應義塾出版社から出版した。これらは新時代の初等教育に対応する適切な教科書として評価されている。

古川は明治5年、工部省に転じて、翌6年にはオーストリア万国博覧会に派遣されている。明治7年には明六社に加入して学識者と交流した。その後も、著訳に従事して義塾出版の雑誌などに時折寄稿した。また、キリスト教に入信し、訓盲院の設立に参画したり、錦喬塾、弘道学舎等の学校経営に当たったが、明治10年に志半ばで病死した。福澤はその後永らく、古川の妻子を親戚同然に面倒を見た。嗣子岩吉は立派に慶應義塾を卒業した。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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